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フェンシングは別名physical chess、身体のチェスと呼ばれている。1対1で相手の出方を読みながら、攻撃するところ、やり取りが対話的なところに由来するらしい。ということで、少し興味を惹かれていた。娘が学校のクラブの案内をもらい、やってみたいと言う。1月にはじめた。週1の課外活動だ。
インテリ集積のプリンストンはチェス王国でもあるようで、学校のNews Letterに、全米チャンピオンでだれそれが何位になったというお知らせが書かれている。休み時間もチェスをしている子供たちも多い。これまでは、とにかく授業がわかるようになるというだけで余裕はなかったのだが、課外活動までやってみるところまできた。 教え方が面白くて、最初はPawnだけでやり、一つづつコマの種類を増やし、コマの動き方をマスターする。家でも、簡単なチェスのセットを買ってきてつきやってやることにした。ルールをしっているのは娘だから、習ってきたコマの動きを娘に教わりながらゲームをする。 実は、中学生のとき、チェスクラブに入っていたことがある。ルールすら覚えないまま、女子のおしゃべり大会の場となってしまいマスターしそびれた。私の父は碁も将棋も打つのだが、女はうまくならないからと言って、教えてくれなかった。5並べを随分一生懸命やっていたのだが、それだけに終わってしまった。チェスは、碁や将棋よりもフェミニンっぽく感じてやってみたかったのだが、自己成就的予言というべきか、本当に全然手を付けられなかった。 娘には、だから、女だからうまくならない、と言う風には、どんなことでも決して言いたくないと思っている。そして、お母さんだから、チェスにはつきやってやれない、ということも言いたくない。とはいえ、やったことがないのだから、手ほどきをするという訳にはいかない。ゼロからゲームの世界を構築する、みたいな心構えが必要になってくる。 付き合うときの姿勢は、あんまり考えすぎないこと。新しいゲームだから全部計算するとすごく疲れて長続きしないから、だいだい、こんなかんじかな、というフォーメーションのイメージを持って、2・3手ほどを考えるだけ。それでも、コマの動き方が複雑になると結構大変だ。考え始めると、複雑になってアタマが爆発しそうになる。フェンシングのウォームアップみたいに、打つ打ち返すを軽くやるつもりで、コマをすすめる。 「どうして逃げてばかりいるの?」 「コマを取られたくないから。」 「フェンシングでも、攻撃と守りのどちらに力を入れる方が勝てるかというと、守ってばかりでは絶対に勝てない。攻撃だけで守りをしなければやっぱりダメだけれど、自分から打って出ないと勝負にはならないんだよ。」 なんだか、親父と息子の対話みたいで笑える。何度かチェスをしているうちに、Stefan Zweigの小説を思い出した。客船の上で行われた二人のチェス名人によるチェスの試合の話だ。その名も、Schachnovelle、チェス小説である。一人は、初老の男でオーストリアでゲシュタポに捉えられて長期間独房に監禁され、その部屋に唯一置いてあったチェスの教則本だけを頼りに自分を相手にアタマのなかでチェスをし続けて、終いに精神障害を起こしてしまった過去の持ち主で、以来、チェスに手をつけたことがない。もう一人は孤児として育った若者で口も満足に利けないのだが、なぜかチェスの才能だけがあることが発見され、それだけを頼りに活きてきた天才の世界チャンピオンである。この2人の人生とゲームとを織り交ぜるように展開されるストーリーだった。 実は、私がドイツ語で読み通した唯一の小説なのである。ドイツにいた当初しばらく通ったGoethe Institutのドイツ語コースの課題図書だった。初夏のある日、覚悟を決めて朝からプールに行き、一気に読み通したことを思い出す。チェスに人生を吸い取られた、互いに半端ものの男の、お互いの傷をえぐる様な対決がシャープに描かれていて思わず引き込まれていった。芝生に囲まれたプールで時折ひと泳ぎしてはまた小説の中に戻るそういう時間まで小説とセットになって記憶している。プールサイドの人間達がチェス対決を眺める観客と同一化してしまったような感じだ。そうやって、一つの小説にまるごとがっぷり取り組むという至福の時間を知ってしまうと、安易に小説を読む気がしなかったりする。 この日は貴方に捧げるわ、ぐらいの勢いで取り組む読書は、読んだ時点で、最高の醍醐味を与えてくれるだけじゃなくて、時間が経つと発酵し、ビンテージもののストーリーとして新しい発見を与えてくれたりもする。読んだ当初はストーリーを追うことに焦点が置かれてしまうけれど、記憶の中で寝かせておくと、もっと全体的な世界感とか雰囲気というものが漂いはじめる。その後に読んだツバイクの『昨日の世界』などの著作や様々な知識、旅の経験、などが連関しあうことで、戦前、タイタニックの時代の大陸間の旅に参加した人たちの価値感や暮らし、汽船や飛行機、ソサエティ、ゲームの役割、などというものが一つの絵になって鳥瞰図を作っている。 母娘でチェスをゼロから始めるという経験をしてみて、はっと気づいたのは、あの小説が、父と息子の物語だったということだ。それぞれ言語遮断の世界におかれ、自分の内的な世界を他人と共有するのはチェスを通してだけ。チェスの対戦によって、父は発狂するかもしれず、息子はもし負けたら自分の唯一のアイデンティティを喪失する。人生をぎりぎりまで合理化しつくしたゲームだとしたら人間関係も究極にならざるを得ない。もっとも近い人間関係で行われるゲームは殺し合いに近いぐらいの緊迫したものだろう。 ゲームで人生を語ったのは小説の虚構だったが、人間行動をゲームで表現できるとしたのは、ゲーム理論である。ゲーム理論の創始者達がすべからくウイーン出身者で、ステファン・ゲオルグも在りし日の世紀末ウイーン最盛期のウイーンで教育を受けたことを思い出す。ギムナジウムはギリシア時代を理想に、男の子達が才能を切磋琢磨するところ、世紀末ウイーンのそれはそれが最高潮に達した場だった。そういえば、Beautiful Mindに描かれた、プリンストンのナッシュもウイーン出身だった、精神障害を起こしたのだった。 女は人生をゲームにできないのだろうか。ゲーム理論が人間行動をシンプルな原則で組み立てるために多くの仮定を置いているように、ゲームをするには、余分なものを剥ぎ取りなければならないだろう。やはり、家事やら子育てやらはゲームに集中できない要素を作り出す。でも、本当にゲームに集中する必要があるのならしなくてもいいのだし。 仕事の締め切りを抱えながら、娘の話を聞いてやり、宿題をさせ、バイオリンを見てやり、食事の用意をして、後片付けをしながら、牛追いのようにベッドに向かわせるという一連のルーティーンに、じっくり座り込んでゲームする時間と心境を紛れ込ませるのは中々難しい。バイオリンと違って楽なのは、娘はやりたくてしょうがないということだ。ルーティンをぐずぐずしていれば時間がなくなるし、母親である私のいらいらを触発すれば遊んでもらえない。 8時までに、宿題・ヴァイオリン・Journal・食事・後片付けが全部終わっていたら、チェスをする、というルールを作ってみた。これが結構効果ありで、チンタラしなくなったのはいいけれど、私にもプレッシャーをかけてくる。まあ、そのくらいてきぱきやった方が自分も楽だ。やりたいという強いインセンティブを持っている人がいるとルールを作るのは簡単なのだなと思う。 チェスには女性の世界チャンピオンがいたことがない。正確に言うと、女性のチャンピオンシップが後から設けられたので、女性チャンピオンシップの優勝者はいるのだが、男女混じって行われる試合の世界チャンピオンがないということだ。身体を用いるスポーツならわかるがどうしてチェスが男女別なのだろう?IBMのコンピュータにさえ参加が認められ、優勝までしたのに女はダメなの?チェスの世界の文化人類学というのも面白そうである。 それにしてもオヤジとムスコはギャーギャー騒ぎながらチェスはやらないだろう、やっぱりハハとムスメだな、私たちは。娘のチェス熱がどこまでどういうふうに持続するのか見届けてやりたいと思っている。 //////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////ナッシュは、今でもプリンストンの街をよく散歩しているそうである。Paulに、一度でいいからみたーい、というと、いつもうろうろしているよーとのこと。チップをつけてもらって、ナッシュ・トラッキングサービスして欲しい!
by tigress-yuko
| 2006-02-06 00:49
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