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人間、何もかもはできない、と限界を悟ったときに、どうするかで個性が磨かれるのだと思う。何を捨てて、何を残すのか。子供の個性、親の価値観の摺りあわせが必要だ。
まず娘の個性。ストリート・スマートか、ブック・スマートかで言えば、娘はストリート・スマートな人間だ。本をじっくりよんで内面的な世界を構築するという方ではない。東に火事ありと言えばバケツを持って駆けつけ、西に水害ありといえばライフジャケットを取り出すタイプ。行動力はすごいが、あまり思慮深くないし、分析力・洞察力があるとは思えない。 そのかわり、企画力と社交性は大したものがあって、家に閉じこもっている母の代わりに、レジデンスの家族構成をほとんど把握し、名前・国籍までかなり覚えている。リサイクルゴミの分類を手伝ってお小遣いをもらってきたりと、ちゃっかりもしている。人望も厚い。曲がりなりにも経営学を教えている私の目から見て一番向いているのは、企業家だ。彼女の望みである医者じゃないと思う。だから、娘の個性からするなら、思う存分遊ばせておくのが、天命にかなっているように思う。 次に母親である私の価値感。ストリート・スマートでもあり、かつブック・スマートでもあるような人間が理想とは思うが両立は難しいときに、どちらが人生にとって大切だろう?キャリア重視でいくのか、人間重視でいくのか。曲がりなりにも世界のいろいろなエリートを見てきた私だ、これからのキャリア形成がますます複雑で大変になっていくとは思う。 でも、人にはこうあって欲しい、という理想があると同時に、こうなって欲しくない、という反理想像というのがある。私にとってのそれは、満員電車で、全身小奇麗な服を着て、中途半端にブランドモノで身をかため、大口あけて寝ている男女である。老人や子供連れが前にいても平気。そこそこ勉強はできるし仕事もこなせるが、自分の意見はないくせに、多数の意見の向くほうに同調する。責任感も希薄で、対価が伴わないと努力しない。のらりくらりと生きている。 物理的に大変な子育ての時期を乗り切ってみて、公共空間において一番子連れの女に優しいのは、40・50代のサラリーマン男性だったように思う。社会の中の役割意識、自負がしっかりあるのだ。次は、いわゆるヤンキーの若い女の子だった。新宿など超満員の階段で、荷物にベビーカーを抱えて悪戦苦闘していると、ほとんど誰も助けてはくれないことに愕然とするのだが、たまに助けてくれるのは、必ずといってヤンキーのつっぱりねえちゃんだった。見かけで判断はできないが、おそらく大学などにはいかず、地元でヤンママになどなるタイプ。地元の人間関係で磨かれてきたんだろうと思う。 髪をキチンとセットし、ツメを磨き、ぴかぴかの靴を履き、全身をそこそこのブランドもので固めた、ぱっとみ品良く可愛い子ちゃんに見えるけど全く無個性な奴に限って、他人のことなど全く意に介せずだ。これほど流行を取り入れ、自分の身づくろいに手を入れる暇とデリカシーがあるのに、どうしてこれほど他人に無関心なのだろう?狭い世界の自分中心で、自分と自分のキャリアでいっぱいいっぱいなのだろう。若い20代から30代の女たちだけでなくて、男にまでこの傾向が蔓延してきているようで、末恐ろしい。この人たちが40・50代になったとき、社会を支える屋台骨はどういうことになっているのだろう。 こういう男女が育った背景には、勉強ができて、きちんとして綺麗に身づくろいをし、そこそこの家に住み、子供をいい学校に入れれば成功者だという価値観を持った家庭があるはずである。日本では、新しい階級論がはやっているみたいだが、その中で勝ち組扱いされている小金持ちクラスターがそれにあたるのだろうかとも思う。団塊キッズといわれる世代で少子化が進むのはこうしたことが原因だろう。女性の勤労、男女の役割分担はもちろん原因だが、根底にあるのは、自己愛とそれをモノで表現する傾向にあるように思う。 自分が、いっぱいいっぱいになったと感じるとき、あの中途半端に小奇麗なねーちゃん、ちまちま矮小な若いサラリーマンを思い出す。そんな奴らになりたくないぜと思って生きてきたんじゃないか、こんなことで保身に回ってはあいつらと同じだぜ、と自分に活を入れる。見かけはともかく、心の中は、ヤンキーなのだ、私は。何が嫌いだといって、ちまちました小市民のせこい人生が大嫌いなのだ。そして彼らが作り出すみみちい社会が。それらに思い切り、ケッ、っと言い放つことで前に進んできたのである。 おいおい、それじゃあまるで10代のねえちゃんじゃないか、40も越えてその程度の価値感かよ、という感じなのだが、ぎりぎりのところで自分を奮い立たせる価値感などその程度のものかもしれない。自分の研究を支えている根底の根底にあるのも、そういうちまちました自己愛でできた小市民社会の鉄の檻を何とか壊したいという気持ちのような気がする。 公立の保育所に通っていた娘の文化・教育的環境を考えて、小学校まで持ち上がりで幼稚園に通わせたものの、小学校は公立の地元の学校に入れたのも、そういう精神に起因するところがあった。お母さんたちは一人ひとりはとてもいい方で、身奇麗でしっかりとした素晴らしい人たち、子供たちもマナーの行き届いた小さな紳士淑女だったのだが、何と言うか、全体にちまちましていた。 子供が他の子に手をだすその前に、10本ぐらいの大人の手が差しだされるような環境である。それでは、大人になってもぬくぬくしたところを選んで生きていくしかなくなってしまう。舗装された道路を外れたら途端に歩けなくなるのは困る。沼地でも、ジャングルでも何とか自分の足で歩いていけるようじゃないと・・・。 しかし、地元の公立の小学校は予想以上にワイルドだった。入学式の日に、早速、ほっぺたにかなり深い10センチばかりの傷を負ってきた。万引き事件に巻き込まれたこともある。学童保育所は、全く勉強するような環境ではなかった。如実に階層が違うことをあらゆる面で痛感させられた。いろいろな人がいるということを経験するにはいいが、知的刺激をクラスメートから受けるということは全くなさそうだ。親のヤンキースピリットの満足のために、子供から刺激的な環境を奪ってしまうのはどういうものだろう、と大いに考え込んだものだ。 子供にできるだけいい教育を受けさせてやりたい、というのの、8割ぐらいは、親の見栄やプライド、自分ができなかった理想の代償だろう。社会の中の位置づけを子供の成功で図るというのが今でもしっかり価値としてあることは否めない。どうしてこんなに人間はプライドを貪る存在なのだろう。いつからそうなったんだろうか、と思う。 心はヤンキーと言う気持ちだって、ちまちました小市民とアタシとは違うんだ、という強力なエゴと裏腹だろう。電車の中で席を譲れる、他人の目を気にせず毅然と発言できる、といった、一見正しそうな行為すら、ちょっと高尚な、一ランク上のプライドであるだけで、ちまちまとした小市民的プライドと50歩100歩かもしれないではないか。これまで人生に、ケッっという、推進力を与えてきてくれた、私のヤンキースピリットというのはその程度のものだったのだろうか。そういった、自分のダークな部分、いやらしい部分を見据えて、それを取り去ったとき、本当に娘にしてやったらいいことは何なのだろうか。 答えが簡単に見つかるわけではない。でも、取り合えず、思いつくのは、自分の中に、私の領域だけではなくて、そっと何割かの公の領域を残しておける懐の深さがある人間になれるよう、協力するということだろうか。何も公のために奉仕する立派な人間になれというわけではなくて、他者と繋がる安全弁になるような空き地を心のなかにリザーブしているという感じである。人間関係の空き地である。ただ空白ならいい訳じゃなくて、コミュニケーションスキルが必要だ。そういった空き地があることで、どん底まで落ちても思わぬ人と繋がって助けられたり、あるいは、思いがけない出会いをしてとんでもなく面白い人生が開けたりする。つながりの可能性が未知であるような空き地だ。 この人、気が合わないやとか、この人問題があるから、と排除していたのでは、思いがけない出会いの女神の後ろ髪を掴む事はできないだろう。多様な他者との他流試合の経験を沢山もっていて初めて自分を拡張できることができるような気がする。 がんばろうぜ、ヤンキーで。
by tigress-yuko
| 2006-05-11 01:41
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