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日本がゴールデンウイークだと、ウエッブニュースなどからのんびりした様子が伝わってきて、こちらの気持ちも休息モードに引き込まれてしまう。やっぱりなんといっても日本がベースだなと思う。今日は、子供の日。去年は柏餅を探しにいったけど、売っていないことが判明したので今年はパス。金曜日だし、帰宅後、好きなだけ遊びなさい、という日にした。
本当は、こどもの日プレゼンを小学校でボランティアでやってあげたかった。アジア、日本の暦や祭りの風習などをパワポでプレゼンし、お菓子をお土産にするというのは何となく頭の中にあったのだが、ここのところの低基調のため、断念した。頭をいろいろ過るアイディアを次々と行動に移せたらどんなにいいかと思う。 GWモードに押されて、ブログめぐりをしてみた。時々覗きに行く極東ブログの教育基本法改正によせたログで、吉本隆明の『家族のゆくえ』についての言及があった。孫引になってしまって申し訳ないのだが、大目に見てもらいたく。 少年少女期の定義は何かといったら――「遊ぶこと」がすわなち「生活のすべて」である生涯唯一の時期だ。「生活がすべて遊びだ」が実現できたら、理想の典型だといえよう。遊び以外のことは全部余計なことだ。この理想が実現できなければ、おどおどした成人ができあがる。もちろん、わたしもそうだ。これは忘れてはならないことにおもえる。 「遊び」が「生活全体」である、というのが本質だから、できれば遊び以外のことはやらせないほうがいい。どんな大金持ちの息子であろうと、どんな貧しい家庭の子供であろうと、生活全体が遊びの時期であるという意味では隔たりがない。みな同じだ。 どの家庭もたいていその邪道を歩んでいると思う。だいたい母親が邪道だし、場合よっては父親だって邪道だとおもう。あるいは小学校の先生も。小学校の先生は勉強なんか教えなくて、子供といっしょになって遊んでいればいい。いちばんいい教育は休み時間にいっしょに遊んで、喧嘩の仕方を教えたりキャッチボールのやりかたを生徒に教えてやることだ。絶対それがいちばんいいとおもえる。 ちなみに、改正された教育基本法の第十条はこうだ。 (家庭教育)第十条 (1)父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとすること。 おどおどした大人であり、邪道な母親である私は吉本ジイと改正教育基本法の間で悩んでいるというわけだ。生活習慣、ディシプリン、人生のイメージ、そんなものを親が授けてやらないで誰がやるという教育基本法のお手本のような正しい母、と、そんなのけっ、本当に大事なことはストリートにあるのさ、という吉本ジイシンパの責任放棄型母、2つが自分の中で錯綜しているのがわかる。 極東ブログの著者は、自らを吉本主義者だと認めながらも、なぜ遊びが重要なのかを説明しないで、言い切り型の語り口に、吉本の老い、ないしは開き直りをみる。そして次のように、自らの体験と吉本のイメージを結び付けつつ、説明への補助線を引こうとしているようだ。 吉本はこの本のなかで、柳田国男の「軒遊び」という言葉に着目している。簡単にいえば、幼児期から学童期の中間で、親の目からそう遠くない軒で遊ぶという空間の重要性だ。確かに私などもそうした時期があった。そして子供がまさに「子+ども」であり、年長の子が「おみそ」を見ていた。 私はおそらく極東ブログの著者とは一世代違うのだろう。決して吉本主義者であったことはないし、著作にピンとくるものを感じたことがないが、遊びが重要だというのはやはり腑に落ちやすい。今の住環境がまさに「軒遊び」のためにあるような条件を備えていて娘がその恩恵を浴びるように受けていることからも頷いてしまいそうになる。ここは、様々な年の子が混じっているだけでなくて、他国籍軍なのもより一層、吉本ジイ的であるような気もする。 群として相互作用する場を与えられた子+ども のパワーは猛烈だ。まず、言語を越え、時には自分達で言葉を製作している。それに、様々な子供同士で遊ぶ際のルール。そして、各家庭の異なった生活習慣。ご飯はいつ、宿題はいつ、寝るのは?といった違いを上手く調整しながら遊ぶ時間をやりくりしている。どの親がどう使えるかの見極めも抜群である。 遊ぶこと、他の友達と遊ぶことが、人生の中で最も重要だというのの私なりの理由付けは、人間の存在感覚と、居場所感覚の基本的体験となるからだと思う。学校にしろ家庭にしろ、制度化された、そして制度化のための教育を人間のすべきこととして人間の行動の主柱に据えてしまうと、人は社会の役にたたないと生きている価値がないという見方が身についてしまう気がする。人間は何の役にたってなくても、何も生み出してなくても生きることができるんだという生の基本感覚というのは、とても重要だと思う。何も生み出していなくてもいる場所、認めてくれる他者がいるというのは人間という存在を支える安全弁のような気がする。 仕事が手につかず限りなく情けない気持ちになったとき、何者でもなかった子供のときの自分の居場所感覚を持っていると、そこに立ち返ると自分を取り戻すことができるような気がする。もうじき日本に帰ったら、軒先をなくしてしまう娘だが、人生のある時期、全くの他者である子供たちをすみからすみまで知り尽くしてどろまみれになって一緒に遊んだ経験はきっと何事にも変えがたく大切なものであるように思う。
by tigress-yuko
| 2006-05-05 07:36
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