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Carnegie Hall
Bach Collegium Japan J.S.Bach Orchestral Suite No.2 in B minor.BWV 1067 Harpsichord Concerto in D Minor, BMV 1052 Concerto in D Minor for Two Violins, BMV 1043 "Brandenburg" Concerto No.5 in D Major BMV 1050 今日はバッハコレギウムジャパンのアメリカツアーの最終日。ずっと仕事で缶詰で考える余裕がなかったのだが、御大、寺神戸亮さんから直々にご招待をいただいた。去年、ワシントンでのコンサート以来、1年ぶりである。アメリカで再会できる友人の数など限られている。世界を飛び回っての活躍ぶりのおかげで、今まで世界各地のいろいろなホールにお邪魔させていただいた。 今日は、カーネギーホール。娘を是非連れて行ってやりたかった。アメリカ行きにあまり乗り気でなかった娘の心を動かしたのが、Music of Mindだった。ハーレムの貧しい小学校にやってきたヴァイオリンの先生が子供たちを引っ張り素晴らしいコンサートを行いまわりを動かし、遂にはカーネギーホールで著名なプロの音楽家達と競演するという実話に基づいた映画だ。この学校に行きたいと言い張る娘に、昔の話だからね、今あるかどうか。花ちゃんのいく小学校にもオーケストラあるかもよ、とはぐらかしておいたのだが、実際に、プリンストンのオーケストラで、Music of Mindそのもの体験をさせてもらえた。その上、英語の先生キャシーの甥が主演を演じていた男の子だったことが判明し、ますます映画に親近感がわいた。 あるとき、Bob DylanのScrup Bookをめくっていた娘が、あー、これあのホールだ、と歓声を上げた。カーネギーホールの円柱が映っていたのだ。良くわかったね。ここにベートーベンがいて、ここに、モーツアルトがいるんだよね。映画で、カーネギーホールについて、ここに音楽の精がいて、数々の名演奏を聴いてきたんだよ、と解説するシーンを覚えていたのだ。是非行ってみたいという。 Bach Collegium Japanの人気はたいしたもので、随分前にチケットはソールドアウト。チケットの受け取りの際の手違いで一枚あまったチケットを、ボックスオフィスでチケットを探していた方にお譲りしたら、先週1週間ずっと探してたの、本当にありがとうと感謝された。とってもいい演奏だと思いますよ、といったら、知ってるわ、とても楽しみにしていたの。知名度の高さに驚く。 演奏は素晴らしかった。フラウトトラベルソの息遣いなど、菅のきんきんした音を全く感じさせない、お腹の中を通ってきた音がそのまま音楽になっているようで、艶かしかった。 しかし、ホールがひどすぎる。今日の公演は、最近新しくできたZankel Hallだった。カーネギーホールが新しく作るホールの響きはどういうものだろうと楽しみだったのだが、音響がひどすぎ。前方に音が篭り、全くデッドだった。私たちの席は左手のパルケットだったから、チェロとコンバスの音は比較的良く聞こえたが、反響音がデッドなために、立ち位置と座席の関係がもろにでる。 私からみて一直線上に並んでいたコントラバスとチェロは完全に音が重なり、コントラバスの音にチェロが完全に吸収されてしまっていた。鈴木秀美さんの音の力強さを知っている私としては、相当な不満だった。西澤誠治さんはえらくカッコよく見えたが。その他の弦の反響音にいたっては全くしぼんでしまっていた。こうなると身体で音は聞いていなくて、頭で聞いて、音を脳でミキシングし、修正して聞かないとダメだから、全く感性に訴えかけてはこない。本を読んでいるような音楽だ。娘は早速寝てしまった。 後半で、主役の2台のヴァイオリンが真ん中にでてきて音が随分変わり助かった。この曲はバッハの中でも最も好きな曲の一つ。掛け合い漫才みたいに、2人のヴァイオリニストの個性が交歓しあって音楽を作り上げるから、組み合わせの妙によって違う曲に聞こえたりもする。まっすぐピュアに我が道を宗教的にいく、みたいな若松夏美さんのスピリチュアルで陰の音楽に対して、亮さんは艶やかな音で歌い上げるヴィヴァーチェな陽の音楽だ。亮さんが夏美さんにあわせて合いの手を入れつつ、間隙を縫って、しっかりと自分の詠いを入れるのが面白く、まあ、器用な人やなあと、思う。何にでも変われるES細胞みたいな音楽因子を持っていて、それで相手に適応して音楽をその場で作ってしまうのだ。前半寝ていた娘も完全復帰し目を輝かせて聴き入っていた。現金なものだ。 これは、相当観客をゆすり、知的に構えていた観客の身体が音楽でスイングしはじめたのが良くわかった。こうなるとホールの中は一つの身体と化し、不思議な世界に変わる。魔法の瞬間である。こわばった身体がほぐれ、精神が昂揚し、生命の息吹をもらったような感じになる。相当高齢のお客さんも多かったが、老木のような彼らの身体に、狂い桜の精気が吹き込まれていくのがわかる。バロックはとても官能的なのだ。年配の顧客が多いのは、そのヒミツを知っているからなのかもしれない。 今回、ちょっと驚いたのは、ヴァイオリンの弓の動きが自然に音符の動きと合わさって理解できるようになったことだ。弓の動きは、音符によって速度が違うので、今まで、どうしてそんな動きになるのか、全然わからなかったが、今日は、どの音をどういう弓の動きで出しているのかはっきりわかった。からといって弾けるというのとは全く別の話だけれど。 レセプションにも同席させてもらい、ホールについての話を聞く。やっぱり。Zankel Hallは多目的ホールとして作られていて、椅子を全部取り払ったパフォーマンスもできるようになっており、そもそも音楽用としてすら設計されていないのだそうだ。じゃあ、あんな、室内楽の小ホールみたいな面構えで設計しなけりゃいいのに。そしたら観客だってコンサートホールの音を期待しない。面だけ立派なホールの面構えなのに、音が全くホールじゃない、というのは最低最悪である。日本の地方ホールの方が、よっぽど、ましだ。よりによってカーネギーホールだぜ。もう、本当にアメリカなんだから!!音楽が聴けないなら多目的ホールじゃなくて、無目的ホールじゃないか。 カーネギーホール自体が、さらにいうと、クラシック音楽自体がアメリカでは死んでいるのである。カーネギーホールの経営は完全な貸しホール事業だ。お金があれば、有閑マダムがカラオケ大会を貸切でできるのである。今日だって、大ホールの方では高校生向けのイベントをやっていた。実を言えばあまりにもプログラムが酷いから、今まで足が向かなかったのである。メトロポリタン・オペラだって似たようなもので、魔笛の振り付けはライオンキングと同じ人が担当するようになり、徹底的にビジュアルを狙い豪華にこけおどして、大衆受けを狙う路線。私の大嫌いなオペラの世界。それならライオンキングを見たほうがずっといいじゃないかと思う。その芸術の本筋をはずさない解釈というものがあるだろう。ライオンキングみたいな魔笛があるのはいいのだが、メトロポリタンの知名度が高いばかりに、そういうのが普通、みたいなのが普及するのが困りモノなのだ。 文化生産論の大家、我がポール・ディマージオは、クラシックコンサート消費の時系列データを用いたかっちりとしたコーホート分析を行っている。それによると、アメリカでは、現在50才代の世代を最後に、クラシックを聴きに行かなくなってしまったのだ。ジャズが若い層を開発しつづけているのと好対照である。日本でも多かれ少なかれそうだと思うけれど、その世代の突如とした分断は、スサマジイものがある。 クラシックファンがいないわけじゃない。バロックはオタク度が高い音楽で、めちゃくちゃファナティックなファンのオタク度はむしろより濃くなっている。バッハコレギウムジャパンのCDなどもアメリカでの露出は極めて少ないと思うが、オタクにとって、商業流通のマイナーさはなんのそのだ。このオタク度の高さと、大衆を狙ったときのやすっぽさの対極に置かれてしまったのがクラシック音楽なのだろう。かなり知識と拘りをもっていないとオタクワールドには参入できない。しかし、大衆受けを狙わないとスポンサーがつかない。 カーネギーホールはその知名度ゆえに、収益だけを考えるともっとも大衆的なものに迎合しやすい体質を持っている。その最後の砦が、ホールによる自主企画公演、"Carnegie Hall Presents"のコンサート群である。これでプログラムの芯を作っておけるかどうかが、芸術振興の拠点としてのホールの命運を決める。しかし、自主企画公演にはリスクが伴うから、いくら芸術の良心といっても、観客を動員できる知名度の高いアーティストでないと収益がでないので、冒険ができるわけではない。今日のBCJの公演もカーネギーホール・プレゼンツであるが、BCJの知名度がとても高いために可能になったそうだ。 ニューヨークにはコンサートのプロモーターが沢山あるそうだ。日本の梶本音楽事務所のようなビッグプレイヤーの独占市場ではなく、比較的大手が数社、その他小規模な会社が沢山いて、互いに競争をしあっている。アーティストごとにプロモーターが必ずしも決まっているわけでもなく、売れるアーティストとの契約を取ろうと、競っているのだという。売れるアーティストとの契約を取り付け、コンサートホールに売るのがプロモーターの仕事だ。アーティストに気持ちよく仕事をしてもらえる環境を整え、いいペイをし、また買い手である主催者に対しては、プレゼンテーションのソースになるような情報を提供する。主催者側は買った「素材」を加工してプログラムを創りあげる。日本でのプロモーションは、どちらかとアーティストよりになるが、アメリカではプレゼンテーション側の販促に力が入るようになるのかもしれない。それは、売買構造が市場的だからだろう。こういう構造だと最初に知名度ありきだから、中々、新人を発掘して育てるみたいな土壌は生まれにくいだろう。 亮さんのコンサートを初めてカザルスホールで聴いてから10数年の月日が流れた。オランダや、ベルギー、いろいろなところで聴かせてもらったけれど、一番素晴らしかったのは、ロワール川中域にある、とある修道院でのものだった。ブクスデフーデなど一段と古いレパートリーで、コンサートホールなんてなかった時代の曲だ。ホールも、プロモーターもない、自主運営のコンサート。咲き乱れる花の香り、馨しいそよ風を感じながら聴いた。ホールとして作られてなどいないのに、建物自体が楽器のように鳴り素晴らしい音だった。 タクシーからNJTに乗り継ぎ、眠りにおちた娘を抱きかかえるようにして車に載せ、帰宅したのは1時。音楽が生まれた現場はシンプルで美しいのに、それを現代で体験するのは、どうしてこんなに厄介なのだろうとちょっと溜息がでた。カザルスホールも売却されてしまったし・・・。
by tigress-yuko
| 2006-03-27 16:45
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